高野孝子の
地球日記

おしゃべりな氷

東京神田。グラスに耳を近づけて太古の空気がはじける音を聞く。右から安井さん、八田さん、グレッグ

 「高野さん、今日は南極の氷を持ってきたから」
 日本を出国する前夜、安井さんが笑顔で言った。
 この日、実は昼間から遠慮ない量のお酒をいただいていた私は、翌日出発が早いこともあって、夜は控えめにしておこうと思っていた。でもこのニュースで方針は180度転換した。
 安井さんは1965年、第七次南極観測(今は第44次)に初めて通信担当として加わり、その縁と人柄による氷の入手だった。

 「南極の氷」とは海の氷ではなく、氷河の一部。それも特別な価値を持つ氷だ。非常に広大な地域を覆う氷河を「氷床」というが、現在地球上では南極とグリーンランドにしか存在しない。氷床の氷は、過去数十万年もの間に降り積もった雪が氷になったもので、中に小さな気泡が閉じ込められている。その気泡は当時の空気だ。
 こうした氷を調べることで、今から数十万年前までの気候変動や環境を知ることができる。
 またその空気は私たちの祖先が石器時代やそれ以前に吸っていたものだと思うだけで、今を生きる奇跡を考える。

グリーンランド東部。パビアと狩りに出かけた。氷に埋め尽くされた海に大きな氷山が浮かぶ

 でもこの夜、何よりも私がわくわくしていたのは、グリーンランドでの特別な感覚を再度体験できるかもしれないということだった。

 三年前の六月。東グリーンランドの海の上で、私はグリーンランドエスキモー、パビアの狩りに同行していた。空を映した真っ青な海に、白い海氷が浮かぶ。その中に時折、大きな青い氷山がアクセントをつけている。氷河が崩れて流れてきたものだ。

 パビアは一つのフィヨルドにボートを進めると、奥からせり出した氷河のすぐ近くで唐突にエンジンを切った。辺りには氷河が崩れたかけらの氷山が無数にある。いきなり無音の空間にほおりだされた。その直後。突然、聞いたこともない不思議な音に全身を包まれて私はうろたえた。聞こえてくるというよりも、まるで頭の中に直接、ペチャクチャと話しかけられているようだったのだ。

 息を沈めて落ち着いて、ようやくわかった。
 辺りに浮かぶ氷山のかけらが溶けて、中に閉じこめられていた大昔の空気がはじけ出る音だった。「パチパチ」などという描写ではない。大きな音が身体の中にぐいぐいと入ってくる。太古の時間が私の体を破り、一瞬、心が時と宇宙を駆けた。おしゃべりな氷に囲まれながら目をつむって深呼 吸した。なぜだか幸せな気分だった。六二歳のパビアもきっと、こうして時との対話を楽しむことがあるんだろう。

グリーンランドの子どもたち。家族でしょっちゅうキャンプに出かける。海も岩も氷も雪も、みんな彼らの遊び場だ

 過去十数年間、私はほぼ毎年のように極地を訪れている。でもこうした経験はこれまでなかった。凍った北極海を四カ月にわたって歩いたり、アラスカやカナダ北極を何度も旅した。でも海氷ではなく、大きな圧力がかかってできた氷山や氷床でなければこうした現象はない。南極にも行ったことがある。でも人とおしゃべりをしていたり、船のエンジンがかかっていては、この衝撃的な出会いはない。グリーンランドでも陸近くからではなく、氷山のまっただなかに身を置いてこそ体験できたことだった。

 安井さんの南極氷をグラスに入れ、麦焼酎を注ぐ。  その瞬間から気泡が音を立てて氷から沸き上がる。「このグラスの中に自分がいるみたいな感じなんですよ」とその時の感覚を説明する。
 空気をかいでみるがもちろん何の匂いもない。少なくとも現代のようにダイオキシンやイオウ酸化物などは入っていない。透明な泡にグリーンランドの友人たちとの時間を思い出しながら杯を重ねた。

カナダ北極で一緒に旅をした長老たち。動物の生態、イグルー作り、天気予知や伝統的なナビゲーションなど、あらゆる智恵を備えた人たちだ

 それにしてもこの日は極地に縁があった。
 昼間、東京神保町で知人との待ち合わせ場所に立ったら、壁に見慣れた人たちの大きな顔が目に入った。岩波ホールで上映中の「氷海の伝説」の巨大なポスターだった。
 舞台はカナダ北部。夏の海にはグリーンランドのように海氷が敷き詰める。そこでのイヌイットたちの精神世界を描いたものだ。私はまさにこの場所に去年滞在し、映画に出てくる人たちと旅をしていた。彼らの自然との関係やそこで生きていく智恵に魅かれた。

 映画では欧米とのコンタクト前の時代を描いているが、表現されている文化や社会には今でも共通して流れるものがある。
 監督はまさか国際的な注目を浴びるとは思わずに作ったという。初めて映画に出演してみた町の人たちもどれだけ評価を受けているか実感がないだろう。美しい極北の光景とそこでの人間のドラマが強烈な印象を与える。寒さという過酷な条件の中で生き抜く技術を人類として初めて身に付けた者たちの子孫だ。日本人ともつながっている。九月十九日まで上映しているという。ぜひお薦めしたい映画だ。

赤ちゃんを入れるための大きなフードがついたこの服のことをアマウティと呼ぶ。実はこのお母さん、映画「氷原の伝説」の主人公役男性の娘さん

 グラスで音を立て続けている南極の氷を眺めながら、北極地域の友人たちのことをしばし想っていた。(2003年8月26日)

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