高野孝子の
執筆記事

未来のために、地球環境を「体験」と「IT」でともに学ぼう!


 これからの時代、どう生きればよいのかを探るためにも、「人と自然と異文化」を学ぶことが大切だ。高野孝子は、世界を駆ける冒険活動の傍ら、そのための組織を立ち上げ、子どもたちに体験教育とITで「地球と自分の未来」を実感させようと奮闘中だ。
「さよなら団塊の世代、大事なことは30代に訊け」=2000年10月、東海教育研究所刊=収録)

◇どう生きるかのための「環境教育」
 ともに未来をつくる仲間を増やしたいと思って始めた活動が、そろそろ10年目を迎える。時には10歳の子どもから76歳の女性まで、一緒に雪の中で暮らし屋久島を歩き、時にはインターネットを利用してミクロネシアの離島やフランス、日本の子供たちと共同作業をする。

 一見かけ離れた活動のように思われるが、根っこはすべて同じ。これからどうやって生きていくべきかを考える素材集めだ。私はこれを「環境教育」ととりあえず呼んでいる。

 なぜ「とりあえず」かというと、まず「教育」という言葉の響きがしっくりこないから。私と仲間たちが取り組んでいるのは、誰かを相手に教え育むことではなく、問題や課題を分かち合い、部分ではなく全体の中での解決策をともに探ること。そこでの学びのプロセスは双方向であり、育まれるのは知性だ。知識や情報は「教える」のではなく、問題を把握し未来を考えるために「共有」する。第一、その知識や情報が正しいかどうかはわからない。正しいとするなら、どんな状況で誰にとってどれほど正しいのかが問題になってくるから、どんな大人でも偉そうに教えることがもはやできなくなっている。

 「環境」という言葉も実はしっくりこない。私と仲間たちのテーマは、「環境について」でもないし「環境のため」でもない。むしろ生きることそのもの、私たちがこれからどう生きるか、ということだ。ひとが生きるために何がどうなってもいいというのではなく、動物や岩や雨もひとと同じ「命」のドメインを持ち、その枠組みの中でひとがどう生きるべきかというとらえ方だ。

◇「国際スタンダード」ではない教育を!
 教育の使命は3つあると考える。まず人として時と場所を超えた基本的な技術や知性、知識を提供すること。例えば約束を守るとか、人が生きていくために何が必要かといったことだ。次にその個人が属するある社会(時には複数の社会)のさまざまな規範や文化に適応する力をつけること。最後に、その人が生きているある時代に必要な技術や知識を身につけること。最終的にはそれらを総合して、生きる方向を人々が見つける助けとなるようなものであるべきだろう。

 時代や社会の変化に伴って教育の中身も変わるのは当然だ。教育を巡る現代の問題の一つは、枠組みそのものと中身が、現実の社会や時代に適切でないことだ。

 例えば学校は、これまで教科書を通して「国際スタンダード」を教えるのが主流だった。私が小学生の時も、音楽は五線譜とクラシック音楽、世界史はヨーロッパの歴史。尺貫法と日本の文化なしに、メートル法。現実の暮らしには、まだ坪や尺が生きているのに。

 国際政治経済社会で腕っぷしが強い欧米の基準が「国際スタンダード」になっているのが事実であり、それに合わせるのはある程度仕方がないとしても、そもそも日本の歴史や風土にない価値観や基準をそっくり移入するのには無理がある。借り物は借り物でしかない。そもそもこれが教育だろうか。私たち世代の多くは、地元の風土や習慣のことをよく知らずに大きくなって、結局、地元に戻らず都会に暮らす。次代を担うべき子どもたちを、彼らが暮らす土地や歴史から切り離し、情報を暗記すればよい点数をほめられるようなやり方で、その地域や日本、ひいては世界に貢献するための素地ができるだろうか。

 私は時折、海外の団体から「日本代表青年」を紹介して欲しいと頼まれる。そんなとき必要なのは、英語が話せることでもなく、クラシックに詳しいことでもない。鍋ひとつで日本米を炊けることだったり、祭り太鼓が打てることだったりする。そうした、自分でなければ語れないオリジナルを持ったうえでの、英語という道具や欧米の枠組みの知識でなければ意味がない。でも今、そうした子どもはなかなかいない。何だかみんな「国際スタンダード」という、実は国際的にほとんど役に立たない日本人になってしまった。

◇「環境」を学ぶためのITと体験教育
 現在の教育の大きな課題は、時代が要求している新しい規範の創造にあるように思う。歴史上これまで人類が体験したことのない状況に対応する、新しいモラルの構築だ。

 それを迫っているのは情報技術(IT)と地球環境問題。いやがおうでも、この二つは社会と人々の思考を変える。これによって地球全体が教育の視野に入ってきた。環境問題は、自分たちの未来や子どもたちの未来に直接関わる緊急の課題として認識されてきた。政治も経済も科学も国境を越えた協力が必要だ。同時に、地球社会の現状がいかに少数の産業国に有利になっているか、環境問題と密接に絡んで、貧困やさまざまなレベルでの不平等 などが浮き上がってくる。

 「オレさあ、中学生くらいん時、荒れてたんだ」。私が主宰するエコクラブの野外プログラムに参加した大学生の声だ。

 「何かさあ、学校でならうじゃん、地球環境がめちゃくちゃだって。結局そのツケが回されるのはオレたちで、何したってどんどん悪くなってく中で生きてくんだと思ったら、何だかどうでもいいと思ってさ」。

 こんな声を聞くと、人に必要なのは知識や情報だけでないと痛感する。最近使い古されてはいるが、「生きていくための力」、もしくは希望がもっとも根底になくてはならない。ではどうしたらいいのか。

 子どもたちは情報技術を使いこなせることが絶対に必要だ。けれど同時にアナログ的な泥まみれの直接体験の重要性は時代を超えて変わっていない。何が命を支え、人が人であるために大切なものは何かを見失わないためには、自然環境や動物、異文化との密な接触が欠かせない。

 エコクラブでは、少人数のグループを対象に、異文化と自然の中で生活する。雨や沢の水で料理をし、闇の声に耳をすまし、自分たちのゴミや排泄物の処理を考える。電気や車などの現代利器を持たない、半自給自足の人たちのお世話になりながら、幸福や豊かさ、社会貢献を考える。現代社会の脆さ危うさに気づき、誇りやアイデンティティの重要性や、国際経済や国際援助の現状を知る。そうしたことを知っているかどうかで、社会のデザインが変わってくるはずだ。

 一方、インターネットを利用した地球学校構想を実行し始めたのは1994年だ。名称を「ワールドスクールネットワーク(WSN)」という。その前年から準備を始めたがまだインターネットという言葉自体を知っている人は少なかった。

 インターネットの利点の一つは、時と時間の壁を越えることだ。私たちはそれを利用し、世界十数カ国の子どもたちのグループをつないで、テーマ別の共同環境プロジェクトと、全員がオンラインで関わる「冒険プロジェクト」を計画した。教室や子どもたちの社会の窓を世界各地に開け放ち、さらに北極での生の冒険活動と通信でやりとりしながら学習するというものだ。多くのボランティアの人たちが、異文化間の子どもたちのやりとりを支えてくれた。

 体験学習を重んじる人の中には、パソコン類を敬遠する傾向があるけれど、このプロジェクトは子どもたちをコンピュータに貼り付けない。自分たちの環境に出かけて活動をしなければ参加できないようになっている。

 教育全体を考えたとき、ITから子どもたちを遠ざけることは、彼らの将来のマイナスになる。むしろ、どうやって「よく使うか」を考えることが大切だろう。車だって包丁だって生活に欠かせないものだが、使い方によっては凶器になる。通信がもたらす世界的視野をうまく取り入れ、野外や地域での直接体験につなげていくのは十分に可能だ。

 その後、プロジェクトの冒険の舞台はミクロネシアの孤島に移り、今はアメリカ人留学生が「未来への智恵探し」と称して日本徒歩縦断プロジェクトを行っている。やってみてわかったことは、オンラインと翻訳を介してであっても、子どもたちは共同作業を通じて地球各地の仲間たちと連帯感を持つということ。環境への意識が飛躍的に高まり、自分たちで考えて行動し始めること。調査力、表現力、コミュニケーション能力の開発に役立つことも報告され、不登校を含め人とのコミュニケーションが取れなかった子どもたちが町に出かけて自主的にインタビュー調査をするようにもなった。

 今でも学校のカリキュラムの枠内にはおさめるには相当工夫が必要だ。けれど、実際に子どもたちが生き生きと変わっていく現実を見ていると、このやり方はこれからも有効であるに違いないと思う。

 始めた当初は特に、この教育的効果と可能性に胸を高鳴らせることができる人は少なかった。ただでさえ保守的な教育の社会に、実積もなく、誰も理解していないことを持ち込むのは至難の業だった。

 環境庁では長官に直接話をして協力を依頼し、快諾を得た。ところがその場に同席した担当室長が、面談の直後に私を横に引っ張りこう言った。

 「君ねえ、いったい通信と環境だなんて何の関係があるっていうの。それに北極だなんて。長官がああ言ったから仕方ないけど、もう少し立場をわきまえるように」

 新しいことを受け入れるには、古い思考を壊す作業と痛みが伴う。今の私たち世代ともっと若い人たちにとって、通信技術は電話やボールペンの延長線だ。当たり前だし、もちろん振り回されないようにライフスタイルを整えることだって忘れていない。

 そんな私たちには、異文化と地球環境、地元での活動を通信技術を使って混ぜ合わせるWSNのやり方は不思議なものではない。それに北極や常夏の島での冒険が重ねるという、これまでできなかった事が生みだす可能性に胸が踊る。もちろん新しい技術を使って、地球上の子どもたちが同時に共同作業をしながら議論を進めるということが、社会としても初めての体験で、既存の学校や授業の概念を壊すものであることは承知している。これをおもしろいと思うか、危険と思うかで、「精神的世代」が計れるような気がする。

 一方、これが本格的な、時代のニーズにそった学びの一つであったとしても、事務方や翻訳ボランティア、仲立ちとなる大人たちには大変な労力だ。実際、教育というのは、手がかかるもので、それぞれの地域やもっと小さな単位の集団によって異なるべきなのかもしれない。もしくは今はそういう個別型教育が求められているのかもしれない。

◇30代だからこそ作れる「子どもたちの未来」
 私たちは地球思考時代の新しい規範を生みださなくてはならない。教育がそれにどう貢献できるだろうか。学校である必要はないし、もうこれまでと同じ学校は必要ない。いや、学校以外に多様な学びの場があっていいということだろうか。それを人々が自由に選べ、資金的にも無理のないシステムが必要だ。

 あえて学校を残すならば、学校はもっと地域のおじさんおばさんを入れ、今でこそ手に入る通信技術を有効に利用して世界とつながり、それぞれの専門を持つ教育NPO, NGOの協力を得るように変わるべきだ。もはや閉ざされた教室で、一人の教師が40人の未来をまかなえる時代ではない。

 学ばなくてはならないのはもちろん子どもだけではない。大人は子どもの人生に大きな影響を与える。ITと地球環境を理解できない大人は子どもの妨げであり、未来への妨げともなる。そもそも大人たちの判断で、いいことや課題も含めて今の世の中になったのだ。少しでも良い方向にかじ取りをして渡すことができるように大人たちも視野を広げ、努力することが必要だ。

 私たちは、おそらく大きなわだかまりなしにマスレベルで地球観を持つようになった世代ではないかと思う。大きくなったとき、「外国」はもはや遠い場所ではなく、宇宙も未知の空間ではなかった。成人して比較的すぐに、地球環境問題が深刻に議論し始められた。冷戦が終わりベルリンの壁が崩れ、それまでの世界を規定していた枠組みが瞬時にがらりと変わっていくただ中に20歳代だった。手書きからワープロに移行し、通信技術革命のさわりから自然に取り込まれていった。私たちにはデジタルとアナログの両方が内在し、野生の自然とパソコンの画面の両方に葛藤なしに入り込める。

 倫理や社会規範を含め、「こうあらねばならない」式の枠組みが次々と壊れていったので、新しい発想に柔軟に取り組める。前の世代が古いものを壊し続けるのを見ていたので、それも平気でありつつ、大切なものは大事にしなくてはという、批判と揺り戻しによるバランスも保っている。受けた教育で世界に出たものの通用せず、この時代に適切な教育について、身をもって考えるチャンスを得た。

 そんな世代のメガネで見えるのは、大きな枠組みを理解し、自分の現場で行動する人々の必要性だ。これはどう生きるのか、なぜ生きるのかという哲学とそれに基づいたライフスタイルに関わってくる。私はこれからも、今と未来を共に考え、そのために行動する仲間を増やすために、通信も利用しながら野外で活動していくだろう。

 今の私たちにはさまざまなことがわかり、同時にさまざまなことがわからなくなっている。誰も確信を持って何かを教えることがむずかしい。でも、大人は子どもたちにチャンスと可能性を作ることができる。彼らの意欲を支え、励ますことが、未来への希望につながっていく。どれほど今が混とんとしていようと、未来に関わるには、今、行動するしかない。

(この原稿をウェブに掲載するに当たっては、東海教育研究所「望星」編集部の許諾をいただきました。ありがとうございました)

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